愛と哀しみの傑作(マスターピース)「コジ・ファン・トゥッテ」
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
「コジ・ファン・トゥッテ」
1777年、21歳のモーツァルトは、それまでより輝かしい職を求めてパリへ向かう旅の途中、マインハイムで17歳の美しい才能あふれるソプラノ歌手アロイジア・ウェーバーと出会います。その後、彼は予定通り母とパリへ。別れの時、アロイジアは自ら編んだレースのカフスを贈ったといいます。
パリではこれといった成果もなく、さらに最愛の母が客死。失意のモーツァルトは、ザルツブルクの宮廷オルガニストに復職します。
1781年、モーツァルトはザルツブルク大司教によりウィーンへ呼び出されます。運命の悪戯でしょうか、当時アロイジアはウィーンに暮らし、ウェーバー家は下宿屋を経営していました。その一室に彼は引っ越します。しかし、アロイジアは、すでに宮廷劇場の人気俳優と結婚していました。その年、モーツァルトは大司教と決裂し失職。ウェーバー家との再会から1年足らずの1782年8月、モーツァルトは三女のコンスタンツェと突然結婚するのです。
結婚当初、モーツァルトはコンスタンツェのために、数多くの作品をつくりますが、なぜかほとんどが完成していません*。コンスタンツェの音楽的才能によるのか、それ以外の理由なのかは知る由もありません。
結婚後、モーツァルトは姉アロイジアのために、演奏会用アリアなどをつくり続けます。1786年初演された音楽付き喜劇「劇場支配人」ではマダム・ヘルツ役を演じたアロイジアに「どんな運命に見舞われても、固く結ばれた二人の絆は決して切れることはない」と歌わせています。
死の前年の1790年にモーツァルトは、姉と妹が、それぞれの恋人を交換し結婚しようとする喜歌劇「コジ・ファン・トゥッテ(女はみんなこんなもの)」を生み出すのです。姉のフィオルディリージは妹の恋人フェルランドと共に歌います。「愛しい人よ、抱きしめて。甘い愛に溺れるのが、喜びの吐息が、恋の悩みに安らぎをくれる」と。
ウルフガング・アマデウス・モーツァルト
Wolfgang Amadeus Mozart(1756~91)
オーストリアの作曲家、演奏家。古典派音楽の完成者の一人。幼くして音楽的天才を発揮。あらゆるジャンルで名作を生む。歌劇「魔笛」、宗教音楽「レクイエム」の他、41曲の交響曲、23曲の弦楽四重奏曲、多数の協奏曲、ピアノ・ソナタ第11番「トルコ行進曲付」など。
*その一例は、花嫁のザルツブルクお披露目のために書かれた有名な「ミサ曲 ハ短調K.427」。コンスタンツェのソプラノ・ソロで1783年聖ペテロ教会にて演奏されますが、全曲完成することはありませんでした。
イラスト:遠藤裕喜奈
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