愛と哀しみの傑作(マスターピース)「ユリシーズ」

ジェイムズ・ジョイス

「ユリシーズ」

 1904年6月10日、ダブリンの街を散歩していたジェイムズ・ジョイスは、腕を大きく振り闊歩する赤毛の長身の女性と出会います。生涯の伴侶となるノラ・バーナクル嬢です。親代わりの叔父夫婦のもとから家出し、ダブリンのホテルでメイドとして働くまだ20歳*の女性でした。

 そして、出会いからわずか4か月後の10月8日、無謀ともいえるヨーロッパ大陸への駆け落ちを決行するのです。

 一人の女性が一つの作品に影響を与えることはしばしばありますが、作家のすべての作品にその影を落とすことはまずありません。しかし、ジョイスの全作品にはノラをモデルにした女性が必ず登場します。『ダブリン市民』の「イーヴリン」では若い水夫とアイルランドを脱出しようとし諦める女(実際のノラはジョイスと駆け落ちしていますが)、『若き芸術家の肖像』の「魔法で美しい海鳥の姿に変えられたかのような娘」(ノラの姓バーナクルは海鳥のカオジロ黒雁の意味)。戯曲*『亡命者たち』の男殺しのバーサ(ボーイフレンドが二人とも肺炎で死んでいることからつけられたノラの少女時代の渾名)。ノラはまさにジョイスの創作の源=ミューズそのものです。

 そして、ジョイスの最高傑作であり20世紀モダニズム文学の最高峰といわれる『ユリシーズ』に登場する歌手マリオン。自身のマネージャーと密通する人妻です。ジョイスは、ノラが自分の友人とかつて関係していたという妄想から、一生逃れることが出来ませんでした。ノラは語っています。「ジムは私が他の男と歩くのを見たがるの。小説を書くためにね」。そして、彼女は挑発するかのようにジョイスに手紙で「親愛なる寝取られ男様」と語りかけます。見事な共犯関係です。

 『ユリシーズ』は1904年6月16日のダブリンの一日を描いた作品ですが、まさにこの日はジョイスとノラが初めてデートした、その日なのです。


ジェイムズ・ジョイス James Joyce(1882~1941)

アイルランドのダブリン生まれ。20世紀で最も重要な作家の一人といわれる。カソリック信仰とそれに根ざした因習を嫌い人生の大半を海外で過ごすが、作品の舞台のほとんどは祖国アイルランドである。ノラとは27年にわたり未婚だったが、子どもたちの相続権を守るため1931年に正式に結婚する。


*当時のアイルランドの法律では21歳からが成人。

*戯曲:演劇の脚本・台本。あるいは、その様な形式で書かれた文学作品


イラスト:遠藤裕喜奈

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