鈴木 勲(ベース)・スガダイロー(ピアノ・作曲家)

「一秒の何分の一かの瞬間で誰もできない音を出す」(鈴木 勲)
「圧倒的な状態にまで引き込むのは、けっこう楽しい」(スガダイロー)

Experimental Gig
「FuturamaX / フューチュラマックス」

県民共済みらいホール

 高い熱量のパフォーマンスに、誰もが圧倒され、翻弄され、魅き込まれる。ジャズ界のレジェンド鈴木勲と、鬼才スガダイロー。唯一無二の二人が12月24日(クリスマス・イヴ)にライヴを開く。精悍でクールな二人が交わす、意外なほど軽妙なトーク。だがその言葉の間には、音楽に向かう鋭利な精神が閃いている。


ジャズとの出会い

―皆さん、鈴木さんを「OMA(オマ)さん」とお呼びになるんですね。

鈴木勲(以下、O) 本当は、ウマさん。

―UMAさん?

O ハンプトン・ホーズとセッションしていたからね。彼が戦後、米軍の兵隊で来日していたんですよ。あの頃、立川とか米軍基地に軍楽隊が100人ぐらいいて、それで5、6人と集まってはジャズを練習していた。そこに遊びに行って一緒にするようになったんだ。ホーズだからホース(馬)。馬とやってるからウマベーで、UMAさん。

スガダイロー(以下、S) 1950年代の初め頃ですよね。

O そうだね。

―もともとベースを弾いていらした?

O まったくやっていなかった。親がルイ・アームストロングのコンサートの招待券をくれて行ったら、一番前の席だったんですよ。当時は知らなかったけれど、ミルト・ヒントンがベースで。「この楽器は面白い」と思っていたら、彼がステージの前に出てきて俺をじっと見るわけ。それで俺も立ち上がって前に行っちゃって。それでベースを始めちゃった。

 それから自由が丘に「ファイブ・スポット」という、ジャズ評論の「いソノてルヲ」の店があってね。そこで、僕がちょっとベースを弾いたら、「上手いじゃないか、ここでずっとやっていいよ」って言ってくれて。長いことそこを拠点にしていた。

 いソノさんは英語が達者だから、外人の来日コンサートの司会するんですね。それで司会したビル・エヴァンスとかミュージシャンをみんな自分の店へ連れてくるんですよ。そんな中でアート・ブレイキーにも会ったんだ。

―その頃は、若い方がいつの間にかアメリカの第一線のアーティストとセッションできてしまう環境があったんですね。それで、ブレイキーの招きで1970年にニューヨークに渡られ、ブレイキー・バンドなどで活動することになった、と。

O 最高にいい時代だったんじゃないかな。ウマさんは実は「上手」でもあったんだ。日本のベーシストの中では上手いっていう。それがだんだんなまって。

―OMAさんになったんですね


誰も真似できない音を出す

―帰国後、多くのリード・アルバムをリリースされましたが、ミキシングまでご自身でされていますね。

O 僕はアメリカでトランペットからピアノから全てマイクの位置が覚えてきたから。僕の録音は良い音がしているはずです。

―確固とした音のイメージがあるんですね。

O やっぱり音が生きてないと駄目ですもんね。

―アルバム『SELF-PORTRAIT / 自画像』(1980)では、中国の楽器「二胡」までご自身で演奏されていますね。

O あのアルバムの楽器は全部自分で演奏しました。できるまで寝ないで練習するんですよ。二胡は弾けるまでには3カ月かかった。

―たった3カ月でできちゃうところが凄い。風の音を出すウィンドマシンまで使っていますね。

O あれも全部、自分で。どういうところで、音楽が死なないようにあの音を入れたらいいかを研究したんですよ。

誰も真似できないものを創る。しかも上手くなきゃ駄目。誰が聴いても「凄い」と思われないと。ということは、いつも聞いているような音はあまり出さない。出してもそれが生きてなきゃ駄目だし、本当に生きるか死ぬかですから。音楽に詳しくない人でも、音を聴いた瞬間に「この人凄い」ってなる。

考えてからでは遅い

―鈴木さんとスガさんの出会いは?

S もう10年ぐらい前。OMAさんのバンド「OMA SOUND」に入れてもらって。最初はついていけなくて。もう首になる、やばいと思って、ともかくできるだけ自分を出そう、目立っておこうと。そうしたら、ずっと使ってくれるようになった。

―スガさんが「OMA SOUND」に参加したきっかけは?

S オーディションです。OMAさんのバンドのピアノが抜けたときに、俺が呼ばれてリハーサル一緒にやった。

O あのときは15人ぐらいにやらせたんだ。で、残ったのがダイロー。ちょっとやっただけで、彼は絶対に伸びていくことが分かった。

S だんだん自然に動けるようになって、そうするとOMAさんと合いだすっていうか。それは楽しかったですね。

―鈴木さんは、多くの若手と組んでいるんですね。

S この人は、若い子ハンター。

―鈴木さんにとって若手とのセッションとは?

O 俺、うるさいからね。だいたい上手くなっていくね。

S 睨まれたら、弾けなくなっちゃう。昔は、ずいぶん怒られましたよ。でもあの頃は分からなかった。

O 今は大丈夫。ダイローしかいない。他とは全然違うから。

S OMAさんみたいなベースもいない。

O 人間って、音が出た瞬間の一秒の何分の一かで感動する。俺はそれを研究しているわけです。自分も弾いていて泣けるからね。そうすると聴く人も泣ける。難しいことだけどね。

 演奏を始めてから2、30年は、何をやっているか分かりませんよ。ただ弾いているだけ。でもこれじゃ駄目だとだんだん自分で意識しはじめる。これだと誰かに似ちゃうとか、自分の個性を創らなきゃいけないですよ。個性っていうのは癖ですからね、そういういい癖をつけなきゃいけない。こいつのピアノが、こいつのベースが、いつ聴いてもいいなってなるものを心に持っていなきゃいけない。それができてれば、お客さんも感動して、同じ心になってくれるんですよ。

―そこまでいくのは大変なことですね。

O いい耳を持ってなきゃ駄目。耳とこの手が、同時に動かなきゃいけない。考えてからやるんじゃもう遅いんだ。ダイローぐらいだったら、もう瞬間に手から動いているはずだよ。

S 瞬発力の塊ですよ。

―この夏には、世界中の前衛音楽家が集まるフェスティバル「ベルリン・アトーナル」に出演されました。

O 800~900人ぐらいの人がびっしり入って、客席からは俺の頭しか見えなかっただろうけど、音出したら、途端に「ウワーッ!」て。

S ピッコロ・ベース、ちっちゃいベースを持って行ったんでしょ。

O 大きな楽器は飛行機に載せられないんですよ。箱大きくてね。何十万ってかかっちゃうんですよ。僕のはちょうど1センチ大きかったら飛行機の客席に載せられないの。それで全部測った。

―ベースはオリジナルなのですか?

O 全部、「チャキ」って有名な楽器制作会社に依頼して作ったんです。

S 鈴木家は、結構いいおうちだったのに、ベースの開発に全部つぎ込んじゃったね。

―ウッドベースは何台ぐらいお持ちですか?

O 普通のウッドベースは5台ぐらい。

S ふつうのウッドベースの演奏も聴きたいですけどね。

O 普通のベースもかなり大きいよ。

S チャールズ・ミンガスにサインしてもらったベースとかありましたよね。

―そこから、セッションする方に合わせて選ぶのですか?

O この相手のこれはやっぱりこっちじゃなきゃ駄目だなていうのは分かる。ちょっと聴けばね。楽器はそれぞれ全然、違いますね。

―どんな違いがあるんですか?

O 何も考えずに手が動いて弾くことができるようなネックが細いとかいろいろあるわけですね。でもある程度力を入れると動かなくなるし、力を入れてぐっと押さえないと良い音がしない。ネックが大きくて平べったいと弾きにくいとか丸みがあったらいいかとか研究していくわけです。手はみんなそれぞれに違うから。ダイローの手は?

S 僕はちっちゃい。

O 小さい方だね。それによって、自分で一番スピードが出る、でもいい音する。それを全部、自分で考えていかなきゃいけないんですね。

ダイローをベルリンに連れていったら面白いと思う。ベルリン市長が来てくれって言っているんだ。

S ぜひ。行きたい、行きたい。

―最近は、ラップとかジャズ以外の方ともセッションされていらっしゃいますね。

O ラップも、僕がベース弾くとまったく違っていくんですよね。

S 若い人たちはレコード文化でOMAさんを知っているんですよ。ラップの人はレコード好きが多いから、OMAさんのレコードを聴いてベースの一部分をサンプリングしたりとか、ファンがとても多い。

―鈴木さんとスガさんとのアドリブは、火花が散っているかのようです。

O 要するに、瞬間なんですよ。もう何も考える必要ない。耳から入ってくると同時にもう手が動いてなきゃいけない。

―即興している最中に相手に仕掛けるとかの駆け引きとかは、ないんですか?

S 驚くべきことにないんですよね。普通はあるんですけど。早口しりとりみたいな。いや、しりとりすらしなくてもいいからっていう。

O もう瞬間に何が出るか分かんないですよ、自分でも。でも、その中で感動させなきゃいけない。そういうことが自然に、毎日、違う形でいかなきゃいけない。同じ形じゃ、駄目。


瞬間にオリジナリティを出す

―決闘みたいな瞬間の連続ですね

O 初めて音楽聴く人でも、なんか凄いなって感じるような、それがなきゃ駄目なんだよね。

S 圧倒的な状態にまでもっていけば、普通に見られない、聴けないことだなってなってくるから。そこまでもっていけるか、いけないか。

O ただ「凄いな」になってくるまで。

S 圧倒的な状態にまでに引き込むっていうのは、俺はけっこう楽しい。

O 瞬間芸。絶対に真似できないっていうオリジナリティを瞬間にやっていく。

S もう無我の境地ですよね。OMAさんは最近、もう悟りが凄いと思う。一言で語るならば、「速さの達人」。OMAさんがバラードのやったときが一番、その速さが分かる。

O 同じバラードでもぜんぜん違ってくる。でも、スピードがあっても、それが全部生きてなきゃいけないね。

S 俺も速いのが好き。

O ダイローのピアノは良くなった。他にいないからね。外国でもいない。ところで、どこでやるんだっけ?

―「県民共済みらいホール」です。ドラムの中村達也さんとサンプラーのKILLERーBONGさんも入るんですよね。

O 二人ともなかなかいいんだよ。

S 達也さんの瞬発力は凄いですよ。

O あいつ、耳がいいんだよ。

S OMAさんと一緒にやると面白い。達也さんは凄い。今やっていたことすぐ捨てられる。OMAさんのことを尊敬していて「あの人は凄い」「死ぬまでずっと一緒にやりたいです」って。

―KILLER-BONGさんは?

O 普通のチャカスカってやるようなリズムじゃないの。俺が壊しちゃったわけ。もう「ワー、ウィー」とかやれって、そこにベースがビーンって入れば、音楽が生きるわけ。

―このセッションで、刺激的なクリスマス・イヴが過ごせそう。

S 絶対、聴きに来たほうがいいですよ。

OMAサンタが地獄の一丁目でお出迎え。世間のクリスマスに飽きた皆さまに極上の夜をお届けしましょう。


My Yokohama by OMA

ジャズ喫茶「ちぐさ」には本当に若い頃から来ていた。ここに初めて来たのは渡辺貞夫ちゃんと一緒だったかな。「この店いいね」って。移転前は2階が空いてて、そこでしょっちゅう練習していたなぁ。横浜は昔からライブハウスも多かったし、ジャズ好きな人がいっぱいいる。他の街はあまりいないですものね。横浜はジャズの町って感じだね。


(野毛「ジャズ喫茶ちぐさ」にて)

取材・文:川西真理 撮影:末武和人

鈴木 勲 Isao Suzuki

1933年生まれ。70年アート・ブレイキーに見出され単身渡米、ジャズメッセンジャーズの一員として活動。帰国後もセロニアス・モンクをはじめ外国ミュージシャンとの共演は数知れない。リーダーアルバムは50枚を超え、オリジナルアルバム「BLOW UP」「陽光」で日本ジャズ賞を受賞。スイスのインターネットラジオRadio Jazz Internationalより世界のジャズミュージシャン20傑に選ばれ「JAZZ GOD FATHER」の称号を授与された。


スガダイロー  Dairo Suga

1974年生まれ。神奈川県鎌倉育ち。Jason Moran、山下洋輔、向井秀徳、中村達也、U-zhaan、灰野敬二、田中泯、飴屋法水、近藤良平(コンドルズ)、酒井はな、contact Gonzoらジャンルを越えた異色の対決を重ね、夢枕獏との共作や星野源の作品への参加、白井晃演出作品にて音楽監督を務めるなど、日本のジャズに旋風を巻き起こし続ける。


Experimental Gig

「FuturamaX/フューチュラマックス」

2018年12月24日(月・振) 16:30 県民共済みらいホール

出演:スガダイロー 鈴木 勲 中村達也 KILLER-BONG

装飾:OLEO(R type L) 照明:渡辺敬之 音響:溝口紘美 Nancy

制作:VELVETSUN PRODUCTS 協力:BLACKSMOKER RECORDS

全席自由 一般 前売 3500円/当日 4000円

こども(3歳~高校生)  前売1000円/当日1500円

※3歳未満ひざ上鑑賞可。ただし、3歳未満でも席が必要な場合は有料。

◎詳細は特集記事をご覧ください。

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