愛と哀しみの傑作(マスターピース)「蝶々夫人」

ジャコモ・プッチーニ

オペラ「蝶々夫人」

 1903年2月の夜、イタリアの田舎道を疾走する1台の自動車が事故をおこします。乗っていた男性は大腿骨骨折で絶対安静、車椅子に乗れるまでに数ヶ月を要する大事故でした。男性の名前はジャコモ・プッチーニ。イタリア・オペラ界の頂点に立つ作曲家です。当時彼は、新作オペラ「蝶々夫人」の作曲中でしたが作業は難航しており、この事故でさらに遅れます。

 退院後、身の回りの世話をさせる小間使いを雇います。近くの農家の16歳の娘ドーリア・マンフレディです。彼女の献身的な支えもあり、同年12月にオペラ「蝶々夫人」は完成します(初演は翌年2月)。

 「蝶々夫人」は当時のジャポニズム・ブームから生まれた作品です。没落士族の15歳の娘・蝶々さんが芸者となり、アメリカ海軍士官ピンカートンと結婚し妊娠。しかし、彼は妊娠の事実を知らずに、一人アメリカに帰国します。蝶々さんは夫の帰りを信じ待ち続けますが、3年後、ピンカートンはアメリカ人の妻と共に彼女の前に現れます。彼の愛が永遠のものでなかったことを知った蝶々さんは、自らの誇りを守るため、父親の形見の短刀で自刃し果てるのでした。

 作者の人生が芸術作品に反映するように、作者や周りの人々の人生がまるで芸術作品をなぞっているかのように見えることがあります。

 ドーリアは、「蝶々夫人」完成後もプッチーニ家で働き続けます。しかし、1908年、プッチーニとの不倫を理由に突然解雇されます。ドーリアの献身が、プッチーニの妻エルヴィーラの猜疑心に火をつけてしまったのか‥‥近年ではエルヴィーラの連れ娘が、当時プッチーニが作曲中だったオペラ「西部の娘」の台本作家との不倫現場をドーリアに目撃され、彼女を遠ざけるために義父プッチーニとの嘘の不倫話を母親に告げ口したといわれています‥‥エルヴィーラは解雇理由を村中に言いふらします。

 1909年、追いつめられたドーリアは、自らの誇りを守るために服毒自殺。その後、生前の彼女の希望により遺体は検死解剖され、彼女が処女であったことが証明されたのでした。


ジャコモ・プッチーニ Giacomo Puccini(1858〜1924)

イタリアの作曲家。18世紀から続く宗教音楽家の家系に生まれる。ジョゼッペ・ヴェルディ後のイタリア・オペラ界の頂点に立つ。代表作は「マノン・レスコー」、「ラ・ボエーム」、「トスカ」、「トゥーランドット(未完)」など。


イラスト:遠藤裕喜奈

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