愛と哀しみの傑作(マスタピース)「亡き子をしのぶ歌」
グスタフ・マーラー
「亡き子をしのぶ歌」
その作曲家は、孤独を愛する一匹狼でした。ボヘミア生まれのユダヤ人という根っからのアウトサイダー、グスタフ・マーラーは、37歳で音楽界の頂点たるオーストリア=ハンガリー帝国の都ウィーンの宮廷歌劇場(現ウィー ン国立歌劇場)総監督に登りつめます。
高級アパルトメントに居を構え、夏には高級避暑地の湖畔で作曲にいそしむ、誰もが羨む生活。そんな成功の中で、マーラーはドイツ・ロマン派の詩人リュッケルトが幼子二人を亡くした慟哭の詩「亡き子をしのぶ歌」に目を留めます。少年時代に兄弟14人のうち7人を亡くし、死を直視してきたマーラー。彼は、3 編の悲劇的な詩に作曲を施した後、ひとまず作曲を中断します。
マーラーの幸運はなおも続きます。20歳ほど若い美貌と楽才に恵まれた社交界の華アルマと恋に落ち、結婚。 すぐに二人の愛娘を授かります。幸福に浸っていた1904年夏、彼は再びリュッケルトの詩2編に作曲するのです。
人生の勝ち組となったマーラーは、なぜこの苦悩の詩と再度向き合ったのでしょう。世紀末ウィーンに充満する死と厭世感に促されてのことだったのか。あるいは、少年時代からの死への強迫観念だったのかもしれません。
「亡き子をしのぶ歌」初演から2年後の1907年、次々と不幸がマーラーを襲います。まるで曲をなぞるかのよう に、最愛の長女マリア・アンナがわずか4歳で病死。それ が原因なのか、マーラー自身も心臓病を患います。さらに、 歌劇場との音楽的対立から、総監督を辞任。彼はウィー ンを去ることとなります。悲劇は続きます。「不幸を呼ぶようなことはしないで。」と「亡き子をしのぶ歌」作曲をやめるよう懇願していた妻アルマが、若い建築家グロピウス*との逢瀬を重ねていたのです。
1911年、少年時代に感染した心内膜炎が再発悪化した マーラーは、この世を去ります。彼はいま、生前の望み通り愛娘と同じウィーン郊外の墓地に眠っています。
*ヴァルター・グロピウス ( 1883 ~ 1969 ): モダニズムを代表する建築家。後のバウハウス創立者。
グスタフ・マーラー Gustav Mahler(1860 ~1911)
19世紀末ウィーンを代表する作曲家。指揮者としても第一線で活躍。 ロマン主義的な発想と、大管弦楽による色彩豊かな作風で、19世紀 から20世紀へ音楽の橋渡しとなる作品を創作した。代表的な作品に、 9曲の交響曲のほか「大地の歌」「さすらう若人の歌」など。
イラスト:遠藤裕喜奈
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