コンスタンチン・ リフシッツ(ピアニスト)
ベートーヴェンは人の心から心へとつなぐ作曲家。
宗教的に愛されているソナタを演奏しているとあたかも旅をしているよう。
その新たな旅を聴衆とともに体感したい。
首都圏8館共同制作
〈ベートーヴェンへの旅〉 vol.2 「悲愴」
神奈川県立音楽堂
コンスタンチン・リフシッツは、ロシア・ピアニズムの継承者として世界中で愛されている。彼は「真の天才」と称され、レパートリーはJ・S・バッハからモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスまで幅広く、さまざまな音楽家と共演して室内楽も行っている。超絶技巧をものともせず自然に聴かせ、思慮深く内省的な音楽は根強いファンが多く、樫本大進と共演したベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全曲演奏では、作品が内包する狂気にも似た感情を打ち出し、絶賛された。
そんなリフシッツが2020年のベートーヴェン生誕250年を記念して、〈ベートーヴェンへの旅〉と題し、首都圏8館でピアノ・ソナタ全32曲を演奏するシリーズを行う。これは全曲を各ホールで3~5曲ずつ演奏し、「音楽の旅」を行うという内容である。
―リフシッツさんは以前からベートーヴェンのピアノ・ソナタを演奏し、ヴァイオリン・ソナタなども多く演奏していますが、ベートーヴェンとのおつきあいはどのような形で始まったのでしょうか。
ベートーヴェンのピアノ・ソナタとのつきあいは本当に長いですね。多くのピアニストがそうであるように、私もソナタ第19番と第20番から始めました。この作品49のふたつのソナタは、「やさしくかろやかなソナタ」といわれますが、けっしてそうではありません。弾き込んでいくうちに、徐々に深い内容に気付くことになります。でも、子どものころはベートーヴェンはあまり好きではなかったんですよ(笑)。モーツァルトの方が、私にとっては入りやすい世界だったのです。
―それでは、大人になってからベートーヴェンの偉大さが理解でき、作品のすばらしさに目覚めたのでしょうか。
まさにそうですね。大人になってからピアノ・ソナタを徐々に弾くようになり、やがて私にとってなくてはならない、大切な作品になりました。2017年に台湾・香港で全曲演奏を行うことになり、最後に取り組んだのは第5番、第6番、第7番の作品10の3曲と、第24番です。そのときに香港大学で行われた「全32のピアノ・ソナタ」を弾くリサイタルが収録され、10枚組のCDが完成しました。
私は、ベートーヴェンは人の心から心へとつなぐ作曲家だと思っています。宗教的に愛されているこれらのピアノ・ソナタを演奏していると、あたかも旅をしているような気分になります。今回の〈ベートーヴェンへの旅〉というシリーズは、そうした意味合いをもって名付けました。この旅は、実際に歩みを進めてみないと何が起きるかわかりません。私は何かが起きると予感し、旅の終わりには新しい世界に到達した自分がいると確信しています。その新たな旅を聴衆とともに体感したいのです。
―今回は、各ホールで異なったプログラムが組まれています。その選曲に関しては、どのように配分されたのでしょうか。
8館ともにひとつのテーマをもとに組み立てたつもりです。作品のバランスを考慮し、調性を重視し、ホールごとに根底に何か同質のものが存在するように考えました。もちろん、あくまでも私の主観による解釈ですが、全32曲を演奏するにあたり、あらゆる文献を読み込み、資料やオリジナル楽譜を研究し、自分のなかにベートーヴェンのすべてが入り込むまで探求を続けました。そうした過程はとても楽しいものであり、知的欲求を促されるものでもあり、興味は尽きません。
―神奈川県立音楽堂では、ピアノ・ソナタ第2番、第7番、第12番「葬送」、第8番「悲愴」が組まれていますが、このプログラム構成に関してお話しいただけますか。
ベートーヴェンのピアノ・ソナタは、いずれもすばらしいストーリーに満ちています。各館の組み合わせを考えるには、そのストーリーを重視し、メインの曲をまず決め、それと関連性をもった作品を組んでいきました。
神奈川県立音楽堂の場合は、やはり第8番「悲愴」がメインですね。これはベートーヴェンが名付けた表題ではありませんが、「悲愴」という名が人気を博す原因ともなっています。このソナタはとても斬新な構成と内容を備え、当時としては非常に衝撃的な作品でした。まるでオペラのような感じだと思うのですが、いかがですか。私はいつもうたうように演奏したいと願っています。
第1楽章はドラマチックで、物語の序章のよう。これから始まる劇的なオペラを暗示しているように感じます。第2楽章は美しい詩情をたたえたアリアですね。本当に美しい楽章です。そして第3楽章はロンドやコラールが登場して、ベートーヴェンらしいポリフォニックな構造を示します。
ピアノ・ソナタ第12番「葬送」は、ショパンがベートーヴェンの曲のなかでも特にこのソナタを好んでいたといわれ、レパートリーとして公の場で演奏することもありました。このソナタの第3楽章は「ある英雄の死を悼む」と記され、葬送行進曲をもっているのが特徴ですが、その悲愴感が第8番と共通していると考え、選曲しました。
実は、このソナタはだれにも献呈されていないのです。ベートーヴェンの時代から、作品をだれかに献呈するということが始まり、第8番はベートーヴェンの人間性と音楽性を高く評価して支援し続けたカール・リヒノフスキー侯爵に捧げられています。この献呈者を見ていくと、当時のベートーヴェンの交流関係、そして時代背景までをも知ることができます。だれにも献呈されていない作品は数少ないですよ。手元に置きたかったのでしょうか。ちょっと謎めいていますね。
―ピアノ・ソナタ第2番、第7番も、関連性をもった内容だと考えて組まれたのですか。
そうですね。第2番は初期のソナタですが、明るく華麗な雰囲気を備え、多分にピアニスティックな作品です。とりわけ第2楽章のラルゴ・アパッショナータは、ただゆっくりと情熱をもって演奏するだけではなく、バス声部の上に美しい歌がうたわれます。第3楽章はスケルツォですが、ベートーヴェンはここで初めてスケルツォと明記した楽章を誕生させました。これも新たな試みです。その精神が他のソナタとの共通性を感じさせます。
第7番は、「悲愴」とほぼ同時期に書かれ、全編に「悲愴」と通じるものがあります。私は、これら4曲のソナタには、根底に深い悲しみが宿っているような感覚を抱くのです。どんなに明朗でも、どんなに華麗でも、その奥に深い悲しみが横たわっている。おそらく、この日の4曲を聴いてくださったお客さまは、私の真意を理解してくださると思います。私はとてつもなく大きな存在であるベートーヴェンと音楽の旅を続けます。聴いてくださる方たちもその旅に同行してください。聴き終わった後は、何か自分のなかに変化が生まれるはずです。それが「音楽の力」ですから。
my hall myself
私にとっての神奈川県立音楽堂
初めて演奏したのは1996年11月30日で、シューマンとシューベルトを演奏しました。次は98年7月19日で、バッハとショパンを弾きました。とても古く、響きのいいホールだという印象が残っています。エミール・ギレリスやスヴャトスラフ・リヒテルがステージに立ったことがあるため、私にとって同じところで演奏することができ、とても光栄だと思います。今回は新しくなったホールでその響きを体感しながら、「旅」を楽しみます。
取材・文:伊熊よし子(音楽ジャーナリスト)
撮影:池上直哉
コンスタンチン・リフシッツ Konstantin Lifschitz
1976年ウクライナ出身。5歳でモスクワのグネーシン特別音楽学校に入学、T.ゼリクマンに師事、その後A.ブレンデル、L.フライシャー、C.ローゼンにも学ぶ。リサイタル活動のほか、世界的オーケストラと、ロストロポーヴィチ、マリナー、ハイティンク、ノリントンなどの指揮者と共演。膨大な録音の評価も極めて高く、樫本大進とベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全集もリリースしている。ルツェルン音楽大学の教授を務める。
首都圏8館共同制作 〈ベートーヴェンへの旅〉vol.2「悲愴」
2020年4月26日(日) 15:00 神奈川県立音楽堂
出演:コンスタンチン・リフシッツ(ピアノ)
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第2番、第7番、第12番「葬送」、第8番「悲愴」
チケット発売中
全席指定 一般5000円 学生(24歳以下)2500円 シルバー(65歳以上)売切
●街なかトークカフェ
4月12日(日) 15:00 yoshidamachi Lily 参加料:2000円
講師:古屋晋一(音楽演奏科学者/医学博士) ナビゲーター:高坂はる香(音楽ライター)
お問合せ・詳細は音楽堂 045-263-2567 またはWebサイト「街なかトークカフェ」から
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