Creative Neighborhoods 街と住まい 「防火帯建築」

第11回

戦後横浜の原風景となった都市建築

「防火帯建築」

防火帯建築がつくる街並みは戦後横浜の原風景となった (相生町1丁目界隈) 撮影:藤岡泰寛


 終戦間近の1945年5月29日、横浜は米軍による無差別爆撃を受けた(横浜大空襲)。この空襲で市域の34%が焼け野原と化し、空爆による死者は行方不明者を含めて8000人~1万人にのぼる大惨事となった。終戦後、占領軍による長期接収を経て、「関内牧場」と揶揄されるほど、荒れ地のまま中心地が放置された状況にあった横浜は、都市の不燃化を進める耐火建築促進法(1952年5月31日)施行を契機に、接収解除地での復興事業に乗り出す。

 建設省から内藤亮一を建築局長に迎え、中庭を囲んだ生活街区の構想を描き、単なる通り沿いの不燃化や土地の高度利用にとどまらない都市計画を目指した。

 約20年にわたり建てられた建築は融資を受けたものに限定しても440棟に及び、2017年11月時点で204棟が現存している。この中には、(財)神奈川県住宅公社(当時)の賃貸住宅を併設した、比較的規模の大きなものも含まれているが、帯状の路線防火帯が建てられた多くの地方都市と異なり、接収解除のたびにできるだけまとまって不燃化を図るしかなかった横浜では、小規模な建築が圧倒的に多かった。路線型の指定を補助線としながら群状に建ち並んだこれらの建築は「防火帯建築」とも呼ばれ、間違いなく戦後の横浜の原風景を形作ってきた。

 そして、街の中心部に人が住める環境を整えてきたという側面からも、これらの建築群は極めて大きな役割を果たしてきた。たいていは4階建てで建てられているが、このうちの少なくとも3階から上は住居となっている。

 このことは、第一に、接収解除間もない時期の、中心地への人口回帰を支えてきた。筆者が調べたところ、昭和30年〜35年の中区全体の世帯数の増加のうち約50%を、接収解除地における世帯数回復分が占めていた。同じ地区が戦前に占めていた世帯数比が約17%なので、防火帯建築が人口回復の受け皿となったことがわかる。第二に、職住共存の住まいとしても、バラエティ豊かな個人事業者が都市に安定的に集積することを可能にしてきた。そして第三に、住居スケールの使い勝手の良さに加えて、横浜の風景を作り続けてきた時間的価値が重なり、新しい建築には生み出すことのできない魅力が人々のクリエイティビティを刺激し、若い飲食店オーナーをはじめ、アーティストや建築設計事務所などの創造産業を引き寄せ始めている。

 建物はかなり老朽化しているが、物語はまだ終わっていない。新しい原風景が生み出されるのはむしろこれからであると信じたい。

横浜市防火建築帯造成状況図(横浜市中央図書館蔵)

昭和33年3月横浜市建築局

県公社住宅を併存した最初の防火帯建築「原ビル」(弁天通り3丁目)

(「公社住宅の軌跡」神奈川県住宅供給公社より引用)


藤岡泰寛

横浜国立大学大学院都市イノベーション研究院・准教授(博士[工学])。1973年生まれ。専門は建築計画・住居計画。99年、京都大学大学院工学研究科環境地球工学専攻修了。横浜国立大学工学部建設学科・助手(〜05)、同・講師(〜10)を経て現職。茅ヶ崎市浜見平地区まちづくり協議会委員(〜15)、横浜市バリアフリー検討協議会保土ケ谷区部会長(17〜)。

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